生け花を買うような優雅なおじいさんになりたい。
友達のAさんがいたとします。友達です。
Aさんが死んでしまって葬式に行きます。
棺桶にAさんが置かれています。
この時点では、自分はまだその死体をAさんと認識しています。見た目は眠っているAさんと変わりはないので。
Aさんは焼かれます。骨になります。
その骨を自分はまだ「Aさんの骨」と認識しています。Aさんの身体なので。
骨を骨壺に納めます。
自分はその壺を「Aさん」と認識しています。中にAさんが入っているので。
壺はお墓に入れられます。
自分はそのお墓をAさんが眠る場所、「Aさんそのもの」と思います。お墓はAさんなのです。だから線香を焚いたり花を供えたりするのです。
こうしてみると、人間は意外と見た目にこだわりません。四角い石になってもまだ「Aさん」だと認識ができるのです。
Aさんからしてみれば死んでるから知らんがなという感じなのでしょうか。
結局、Aさんが死んだ時点でAさんの生きていた情報、生命活動思考代謝その他諸々は終了するわけで、その後に棺桶に入れようが焼こうが骨を拾おうが墓を建てようが、それらは全て生きている自分ら側の都合のためでしかないってわけです。
宗教は生きてる人間を色々納得させるためにあるのだと自分は思います。
生きている人間は、死んだ後どこに行くのかとかどうすれば死後も安寧に過ごしていけるのかとかどうやって生きていけばいいのかとか、とにかく面倒くさい事をぶーたれながら生きているので大変です。とても大変そうです。
こんな自分でも死んでしまったらきっと周りの人は悲しむのでしょう。悲しんでくれなきゃ今まで生きてきた意味が無いから悲しんで。
ただ、自分が死んだらもう自分はどうやっても存在しないし、墓の下に自分は感情をもって生きていないし何も無いのです。その墓はまだ生きて自分を覚えていてくれる人の為だけにあります。でもそのお墓のおかげで自分の事を思い出して何かを想ってくれる人がいたとしたら、やはりお墓と言うモノはとても大事で価値があって、意味のあるものなんだろうと自分は思います。
結局何が言いたいかというと、フレンダちゃんが死んでしまっても自分は勝手にフレンダちゃんの事を想い悲しむだけと言うわけです。
自分にとってのフレンダさんの墓は自分の記憶であり、その記憶を失くしてしまえば、自分にとってフレンダさんは本当に死んでしまうのです。
おわり。